「生酛造り」とは、天然の乳酸菌を取り込み繁殖させることで酵母の生育を助ける酒母の造り方です。

『多聞院日記』によると、三段仕込みに初めて成功したのは永禄11年(1568年)。当時、生酛造りの原型がすでに存在したようで、清酒の発祥といわれる南都諸白の時代でも、壺や甕(かめ)ではなく木桶を使った仕込みや暖気樽による加温が行われていることから、現代の生酛造りに近い方法が行われていたのかもしれません。

そもそも「生酛」という言葉が生まれたのは明治以降。江戸時代は「菩提酛」や「煮酛」と対比して、冬の寒い時期に造るため「寒酛」と呼ばれ、「山廃酛」や「速醸酛」などの簡略化された造り方が編み出された明治40年代は「育成酛(そだてもと)」や「普通酛」という名前で区別されていました。

日本山海名産会図に描かれた江戸時代の酒造りの様子

このように、明確な定義がないまま成り立った生酛。今回は、丹波杜氏によって受け継がれた"灘の生酛造り"について考察してみましょう。

室町時代に確立された「菩提酛」

「速醸系酒母」「生酛系酒母」に大別される現代的な酛造りの始まりは、室町時代に奈良県の菩提山正暦寺で確立された「菩提酛」と言われています。

奈良県・正暦寺にある菩提酛の石碑

菩提酛は、酵母が繁殖しやすい気温の高い時期に造りを行い、自然の温度を利用して酛を造る方法です。伊丹鴻池流をはじめ、諸派の酒造りに関する詳細が書かれた『童蒙酒造記』には、菩提酛は通常、二段仕込みに使われ、新酒を仕込む直前に酒を造る場合の酛立て法だったことが記されています。

それに対するのが、現代の生酛に繋がる「寒仕込みの酛」。冬場に仕込みを行うことで雑菌の繁殖を抑え、人工的に加温して酵母を育成させる方法です。1695年に発刊された『本朝食鑑』には、菩提酛の製法と別の酛立て法が記されており、陀岐(暖気樽のこと)の使用や三段仕込みについての記載を確認することができます。近代的な酒造りの原型がほぼ完成していたんですね。

現在の「生酛」ができるまで

江戸時代の「寒仕込み酛」から明治時代に成立した「生酛」までの変遷をたどってみましょう。

日本山海名産図会:伊丹の酛造りの様子

1799年に発刊された『日本山海名産図会』には、伊丹で行われていた酛仕込みの様子が描かれています。棒櫂を使って「酛掻き」と呼ばれる攪拌作業を行っていたようですね。しかし、元禄期(1690年ごろ)の『童蒙酒造記 寒元造様極意伝』の記述を見ると「手酛」と呼ばれる手を使った作業はあるものの、棒櫂による酛摺りが行われた形跡を見ることはできませんでした。

1700年代中ごろまでの酛仕込みには酛摺りが存在しなかったのかもしれません。灘流の生酛は「酛摺り(山卸し)」にこそ、その極意があると考えています。

元禄期の前後、大坂や摂津周辺の酒職人が高給で雇われ、池田・伊丹流の酒造りが各地へ伝播します。南部藩(現在の岩手県周辺)に酒造業を拓いた近江商人の村井権兵衛が、宝暦6年(1678年)ごろに大坂の酒造り職人を招聘したという記録もあります。

そのころ上方では、酒造業だけでなく商工業に従事する奉公人が不足し、人手不足を補うために近隣の農村地域から農民が流入してきます。そして、農閑期の出稼ぎ奉公人が酒造りの中心を担うようになりました。

山間部の農民が池田・伊丹で酒造業に従事するようになり、それが播州・丹波と裾野を広げ、いずれかの段階で酛摺りが開発されたのでしょう。

その後19世紀初頭に、伊丹・灘で酒造りをする蔵人の多くが丹波杜氏に占められ、寒造りの酒母を仕込む最初の段階で「山卸し」が生まれ「生酛造り」が完成するに至るのです。

明治時代の酛造りを振り返る

生酛造りについて、『灘酒沿革誌』に記された、明治10年ごろの本加納商店における酛造りを参考に紐解いていきましょう。

<1日目>

  • 蒸米
  • 活け飯:蒸し米を半日間かけて冷ます
  • 仕込み:半切り桶に蒸米・麹・水を投入する
  • 手酛:棒櫂や"爪"という道具を使ってかき混ぜ、水分を米になじませる

<2日目>

  • 山卸し:櫂で蒸米を摺り潰す作業。1番櫂、2番櫂、3番櫂と数回に分けて行う
  • 酛掻き:夜中、半切り桶を屋外に出して撹拌しながら、六甲おろしの夜風を利用して冷却する

<3日目>

  • 打ち明け:摺り潰した醪を酛卸桶に集める
  • 打瀬期間:低温を維持するため、2~3時間おきに櫂入れを行う

<4~6日目>

  • 醪の育成:暖気での加温と冷却、糖化と乳酸菌の育成、酵母の増殖、湧き付き

<7~10日目>

  • ギリ酛投入、温み取り、最高温度到達

<11日目~>

  • 酛分けと枯らし:完成した酛を冷却し、一定期間休ませる

仕込みの日には「活け飯」という蒸しあがった掛米を半日間かけて冷ます作業が行われます。午後、半切り桶に蒸米・麹・水を投入したあと、一晩低温で寝かせて米に水分を含ませます。その間、温度を均一化し水分のムラをなくすために「手酛」という作業が行われます。

2~3時間おきに仕込んだ米をほぐし、底にたまった水分を掻き上げてなじませていきます。その約15時間後、いよいよ生酛造りのメインイベント「山卸し」が行われます。

丹波杜氏が酛摺りをするモノクロの写真

酛摺りを行う前には「ヤシンコラ」という作業があります。米をある程度柔らかくしておかないと酛摺りがやりにくくなってしまうため、ちょっとした下ごしらえが必要なのです。昔の造りを知っているおやっさんには「お前ら、ヤシンコラもせんのにもう酛摺りよるんか?」と、笑われたものです。

ヤシンコラでは、どっしりと腰を下ろし、逆手に棒櫂を持つ独特なフォームで米をついていきます。今よりも精米歩合の値が高く、米が硬かった当時、酛摺りはかなりハードな作業だったに違いありません。

蕪櫂と棒櫂(へら櫂)

酛摺りは、2人1組で息を合わせて弧を描きながら米を摺り潰していきます。その間、棒櫂を持った頭(かしら)が醪の具合を確認しつつ、全体の進行状況を見て回ります。突起のついている櫂を蕪櫂(かぶらがい)と呼び、元々は下駄を材料にしていたのだとか。

山卸しには、作業の効率や酒の良し悪し以前に「酒は人でなく神様が造るもの」というシャーマニズムが隠されています。

その年最初の酛仕込みが終わった日には、蔵で酛始めのお祝いが行われます。一冬の安全醸造と酒造家としての繁栄を祈願して唄われるのが、山卸しの作業唄でもある「酛摺り唄」です。

江戸時代は「酛立て期間」として、その年に仕込む酒すべての酛を造ってから次の三段仕込みに移るというスケジュールで造られていました。酛始めと酛仕舞いのお祝いが行われ、蔵元から蔵人への労いの一献もまた酛造りの大切な要素でした。

酛摺り唄を別名「ご祝儀唄」と呼ぶのは仕込みの最中に唄う作業唄という要素よりも、お祝いごとを通して蔵人たちが心を通わせることに主眼が置かれているからでしょう。

「酛摺り唄」はどこから生まれたのか?

丹波流酒造り唄保存会公演 酛摺り唄:篠山市デカンショ館

酒造り唄の多くは、農家の仕事唄などから成立しています。そのなかでも、灘で唄われた酛摺り唄と似ているのが「石つき唄」ではないかといわれています。

家を建てる際、基礎となる土台をつくる「石つき」という作業。今ではコンクリートを流し込んで完成させますが、昔は大勢の人々が太い柱をドスンドスンと地面に叩きつけて地を固め、そこに石を放り込んで土台にしました。

作業を行うのは近所の人や親類などで、作業が終わると建て主から振る舞い酒が出され、家の繁栄を祈りつつ「石つき唄」を唄ったのだそう。灘地方に残される石つき唄の歌詞を見てみると、芦屋市清水町で唄われていたとされる一節に、酛摺り唄と同じ文句を確認することができました。

〽目出た目出たの若松様よ ヤレ枝が栄えてノーホイホイ葉も繁る
おもしろや なんじゃいよのが ひょうたんじゃ

石つき唄に限らず、この「目出た目出た」の文句はあらゆる地方の俗謡にも登場するフレーズですが、石つき唄の歌詞では特に目立ちます。また「伊予の瓢箪」を意味する「イヨ~ノヒョウタン」「イヨ~ガヒョウタン」というフレーズが多用されることから、四国から播州を伝って唄が広まったと考えられています。酛摺りを持ち込んだのは播州杜氏なのかもしれませんね。

播州杜氏は丹波杜氏の師匠格であり、当時の酒造技術においても群を抜いた存在でした。建築物を支える土台と酒造りの土台である酛の関係が似ていることから転用されたのではないかと想像することができます。

酵母という微生物の存在が知られていなかった時代、発酵は神仏の作用によるものであり、その初期段階で山卸しを行うことは極めて重要な効果をもたらしたと考えられます。

男女の情事を意味する酛摺り唄がある理由

〽色の道から出てきた私 色でしくじりゃ是非もない

〽色でやせたわ親たち知らぬ 薬のめのめ煎薬を

山卸しは男女間の情事を意味するともいわれ、酛摺り唄の後半は内容が卑猥な文言に終始するようになります。男だけの職場である酒造現場での憂さ晴らしとしての意味があるのではと考えがちですが、そればかりとは言い切れません。酒造り唄の元となった田植え唄などの作業唄にも隠語が満載なのです。

男女が入り混じる田んぼ仕事のなかで日常的に謡われていたことを考えると、子孫繁栄を祈ることと男女間の俗語は同一のもので、酛摺り唄にはその一面が反映されてきたのかもしれません。

現在の酒造りにおいては山卸しが不要と考える人もいるでしょうが、伝統文化として受け継がれている酒の精神的支柱ともいえる山卸しには、深い親しみを感じます。

〽三夜まちをすりゃ夜中が限り 殿が来る夜は限りない

〽五年恋して一夜で落ちた いやなお前のじゃみ肌に
<伊丹の農家の田植え唄>

〽ヤーレうたをうとうて田植えしたら 同じ植えるのも楽するよ
ドッコイさすならしよう ささねばよしにしよう
ささん時にはようしにしょわいの
<川辺郡多田村(兵庫県川西市)>

農家で唄われていた田植え作業の唄と酒造り唄、"色のまじらぬ唄はない......"という共通言語で結ばれています。

夜中の仕事が、丹波杜氏躍進の鍵

〽初夜の鐘なら千里も唸れ鳴るな唸るな六の鐘

〽夜中起きしてもと掻く時は親の内でのこと思う

「酛掻き唄」と呼ばれる、夜中の作業で使われる唄です。

蔵人の仕事でもっとも辛いことといえば、夜中も寝る暇なく仕事が続くことでしょうか。

生酛造りの要、半切りと櫂

冷蔵設備のない時代は、半切り桶を屋外に持ち出し、夜風にさらすことで冷却していました。桶はかなり重たく、これを背負って運ぶのは、野良仕事で鍛えられた農家の人でも体格がかなり良くないと難しかったのだとか。桶を背中に抱える姿から"亀"と呼ばれていたそうです。

丹波流の酒造り唄が7つほどあるなかでもっとも物憂げなメロディーをもつのが「酛掻き唄」。歌詞の内容も辛い蔵人生活への嘆きで、しんみりと淋しげです。酛掻きの作業は夕方の「仕舞掻き」、夕食後の「風呂上り掻き」、就寝前の「初夜掻き」、真夜中の「夜中掻き」の4回に分けて行われていました。

〽眠い眠たいこう寝むとうては 永の冬中がつとまりょか

〽馬に千駄の金さえあれば わしもこの様に身は捨てぬ

蔵人仕事の辛さを嘆いた気持ちが素直に表現されています。休むといってもほんの一時で、常に時間を気にしなければならず、冬の間を通して充分な睡眠はとれません。酛掻き唄は丹波流以外の酒造り唄には見られない唄でもあります。

寒仕込み酛の主役「暖気樽」

暖気樽

寒酛造りの肝は、他の生物が生息できない低温で酒造りに有効な乳酸菌などの微生物を育てることにあります。しかし、いつまでも低温のままでは酵母の育成を進めることができません。段階を追って少しずつ温度を上昇させていくために用いられるのが「暖気」という湯たんぽの役割を果たす樽です。

現在と明治初期の生酛造りを比べると、大きく違うのがこの段階における品温の上昇速度。現在の酛仕込みと比べると、およそ半分の日数で仕上がっています。暖気を挿し込んでいない間は、常に櫂入れの作業がつきまといます。

以下は「時掻き」と呼ばれる櫂入れ仕事の日程です。

  • 8時 朝掻き
  • 10時 昼掻き
  • 13時 昼寝掻き
  • 16時 仕舞掻き
  • 18時 風呂上り掻き
  • 20時 初夜掻き
  • 22時 四つ掻き
  • 24時 夜中掻き
  • 2時 八つ掻き
  • 4時 総起掻き
  • 6時 ずる掻き

蔵人が品温を安定させるための櫂入れを数時間おきに行っていたことは、酒母の様子を記した経過簿には記されていませんが、記録にない努力が間違いなくありました。

幕末のころ、魚崎郷の岸田忠左衛門によって創始された丹波流独自の「ギリ酛」と呼ばれる仕込みがあります。ギリ酛とは通常沸騰した湯を詰める暖気樽に水を適度に割って酛に挿し込むことを指し、寝る間を惜しんで仕込みを行う丹波杜氏の過酷な蔵人生活を象徴しています。

本来は暖気を休む期間に昼夜を通して作業し続けることで、育成の日数を短縮することができたようですね。酛の仕込み日数を切る(短縮する)ことから「ギリ酛」という名前なのかもしれません。2時間おきに夜通し付きっきりで管理する作業を強いられ、"命ギリギリの仕事"というようなニュアンスを感じずにはいられません。

暖気の操作に限らず、丹波流の生酛仕込みでは夜中に何度も櫂入れ作業を強いられます。

あるエピソードとして、出雲地方の秋鹿杜氏が丹波流の仕込みを見習いに来た際の『2時間ごとに櫂入れをさせられる。百日稼いだ揚句に丁度二貫目やせた、丹波流なんか、今後とも七里ケッ灰だ』というコメントが残っているほど酷烈な働きぶりだったのです。

公演会で櫂入れを披露する丹波杜氏集団

私が以前働いていた蔵では、3人の蔵人が交代で2時間おきに酛の櫂入れをすることになっていました。

自分の番が回ってくるのは一度だけですが、寝ていた隣人が順番に起きて歩く音、扉の開く音、はたまた当番の者が寝過ごしていて一向に起きる様子がない不気味に静かな寝息などのさまざまな雑音で、さっぱり寝れなかった体験を思い出します。

夜中仕事の大変さは、起きるべき時間に寝ていてはいけないことと、明日の仕事に影響がでないようにできる限り寝ておかなければならないという相反した気持ちをコントロールすることにあります。

暖気樽の構造 ~白鶴資料館より~

酵母は夜中にこそ活動する?

蔵人の先輩にはよく「酒造りを知りたければ夜中上がって勉強せい」と言われました。かつて職人の世界では、杜氏や頭が直接知識を伝授することはありませんでした。酒造りを学ぶ教科書は、醪自そのものです。

みんなが寝ている時間に醪の面を眺めて教えを乞い、責任者が書き残している経過簿やノートをこっそり見ることが暗黙の了解とされていました。そんな最中に「湧き付き」が起こります。

今まで散々手を焼いてきた醪が酵母の増殖によって独りでに温度を高め、炭酸ガスによって泡が噴出して膨れ上がり、到達点を迎えます。どういうわけか、経験上、この湧き付きはほとんどが夜中過ぎから明け方に起こるのです。酛廻り役はまるで赤子の誕生を見守る親のように、生命の神秘に触れる瞬間を待ちます。酵母はその育て親を知っていて、他の人が寝静まった後にこっそりとその産声を聞かせてくれるものなのかもしれません。

明治時代の仕込みでは、湧き付きの翌日は一日暖気を休んだ後「ギリ酛」が挿入されます。ぬるめの湯を詰め、昼夜2時間毎にゆっくりと回す作業を続けます。限られた時間と資源を最大限に活かすために行われた努力だったのでしょう。

丹波杜氏の生酛造りを守り抜いた菊正宗の生酛

生酛造りには酛摺り唄の晴れやかな表の顔と、酛掻き唄の寂しい裏の顔が存在します。約1ヶ月間の酛造りを終えると、体から一気に力が抜け、高揚感に包まれます。

明治になって醸造試験場ができると、灘流の生酛造りが科学の力を借りてさらに発展します。しかし、幕末以前の生酛造りとそれ以降のものが区別されることなく現在に至っているのも事実。そのほとんどがまだ解明されていない生酛造りには、神秘を感じずにはいられません。

(文/湊 洋志)

◎参考文献

  • 『日本山海名産図会』
  • 『童蒙酒造記 寒元造様極意伝』(袋屋孫六)
  • 『灘酒沿革誌』(神戸税務監督局)
  • 『伊丹市史』(伊丹市史編纂専門委員会)
  • 『酒造りの歴史』(柚木学/雄山閣)
  • 『西日本の酒造杜氏集団』(篠田統/京都大学人文科学研究所)
  • 『ひょうごの仕事うた』(河野年彦/神戸新聞出版センター)
  • 『伊丹の民謡とわらべ唄』(伊丹市教育委員会)
  • 『芦屋の生活文化史―民族と史跡をたずねて』(芦屋市教育委員会)
  • 『日本酒の科学 水・米・麹の伝統の技』(和田美代子、高橋俊成/講談社)
  • 『南部杜氏 南部杜氏の成立と展開』(森嘉兵衛/日本醸造協会雑誌 第61巻10号)

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